アーティ・ショウについて

アーティ・ショウは、1930~40年代のジャズ界で、ビッグバンドを率いて「ビギン・ザ・ビギン」を編曲・演奏し、人々を感動させ大成功を収めたことで有名な人物です。

ニューヨーク出身のジャズクラリネット奏者ですが、作曲や著述でも才能を発揮しました。

「クラリネットの王者」「スイングの王者」とも呼ばれ、一世を風靡し、ジャズとクラシックを融合させた「第三の潮流」の実践を試みたり、ビ・バップの影響を受けたセッションを生み出すなど、独自の音楽手法の開発にも意欲的に取り組みました。

また、ビリー・ホリディやメル・トーメ、バディ・リッチ、バニー・ケッセル、レイ・コニフ等々そうそうたる面々と共に、ありきたりではない本物のジャズで、長きに渡り数々の感動を生み出しています。

本人の完璧主義が原因で、1954年に43歳の若さで音楽の世界から退きますが、その後も自らの名を冠した楽団で時々指揮をしていました。

グラミー賞特別賞を受賞した2004年に94歳で亡くなるまで、高度な数学を研究したりする等多才な人でもありました。

アーティ・ショウの生まれ・経歴

アメリカを代表するジャズクラリネット奏者で作曲家のアーティ・ショウは、1910年5月23日にニューヨーク市で生まれました。

その後コネチカット州のニューヘブンで少年期を過ごし、13歳でサキソフォン、16歳でクラリネットを始めます。

16歳から20歳までは参加するバンドが巡業に出たため家を離れましたが、ニューヨークに戻った1930年代初頭には、セッション・ミュージシャンとして成長を遂げていました。

シンフォニック・ミュージックに出会ったのもこの頃です。初めて世の中の感動と称賛を浴びたのは25歳の時。

インペリアルシアターで演奏された「Bフラットの間奏曲」で、ショウはサード・ストリームの原型ともいうべき画期的なスタイルを披露しました。

そして、その後のスウィング全盛期には、「ビギン・ザ・ビギン」「スターダスト」をはじめとする数々の大ヒット曲で、人々の感動を集めるようになりました。

ビリー・ホリディを初めとする才能あふれるアーティストたちにも恵まれて大成功をおさめますが、第二次大戦中に慰問バンドとして戦地を回り、戦後カーネギーホールでバーンスタインらと協演した後、43歳で音楽からほぼ引退しました。

アーティ・ショウとクラリネット

ジャズ界の中で最も素晴らしいクラリネット奏者の一人と評され、クラシックとジャズを融合したthird streamと呼ばれる音楽手法を試みた実践者でもあります。

1954年に自身がクラリネットを演奏することは引退してしまいましたが、それまでの数々の大ヒット作は世界中の人たちを感動させています。

戦前から戦時中、戦後と激動の時代と共に生きた一人の男が世界中の人を感動させられた原動力となったのは幼い頃に暮らしていたニューヘブンでの反ユダヤ気風でしょう。

反ユダヤ気風に囲まれて育つ中で、自分自身の内省が深められていくのは自然の流れであり、その思いがジャズという音楽性とマッチし、自身の魅力と合間って感動を生み出していったのでしょう。

残念ながら既に亡くなっている為、演奏を聴きたいときはレコードやCDを購入しましょう。

最近は動画投稿サイトにアップしている人もいるため、パソコンやスマホなどのメディアを使って当時の感動を目の当たりにすることも出来るでしょう。

アーティ・ショウの死後・影響力

元来ニュースと言うのは不幸な事態を報道されることが大半ですが、今回の欧州での主にシリア系民族の難民問題には幾つもの要素が複雑に絡まり合っていて、難民側にも受け入れる国家側にも容易な解決策の糸口さえ見えない難問であり、欧州の一般人達も当事国でありながら、どこか対岸の火事として俯瞰していた様に思われます。

しかし、4人乗りのゴムボートに20人以上を乗せ、多くの犠牲者、とりわけアーティ・ショウ少年が悲惨にも海岸に打上げられ息を耐えていた画像一枚が、語弊は有るかもしれませんが、欧州国民の多くに多大な衝撃(形を変えた感動)となり、体制側の及び腰の姿勢を改めさせるに至ったのです。

前述した様に非常に難問山積の特殊な事態ですので、まだまだ具体的展望は観えてきませんが、それでもたった一枚の画像が発したメッセージは億を超える人々にある種の衝撃や感動を与え、行動を起こす契機と成り得たのです。

人類の半分以上が望むと望まざるとカメラを手にした報道者となり得るこの時代、その影響力の大きさを自ら自覚し、世界に発信する観点が重要なものとなるのでしょう。